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新生のらくろ君Aの館

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造船時代その5


造船所時代の日記(5)です

オスロに降り立つと、流石にひんやりしたが、日中故、差ほどの冷え込みではなかった。私を迎える者はなく、アポイントを取ってあったので、直ぐその足で、NV本部に向かった。気持ちを落ち着かせる意味もあって、タクシードライバーに英語で話しかけた。通じた。「I came here on business I’m a Naval architect and would like to come to NV head office」「Are you Japanese?」「Yes.」運転手は、大学を卒業していたが、いい職がないので、今はタクシーを転がしているという。ノルウェーは、結構そういう高学歴の人が、タクシーを動かしていることが多いと言っていた。NVは造船家のメッカ、誰も知らない者はいない。運転手に行き先を言うと、直ぐ承知して、連れて行ってくれた。
流石バイキングの国である。英国に次いで、造船家のステータスは高い。運転手は私に最後「Thank you sir」と言ってくれた。日本ではとても考えられない局面だった。
NV本部は総ガラス張りの綺麗な建物だった。日本の様にごみごみした感じはなく、建物は広い敷地に毅然と建っていた。玄関を抜け、階上に上がり、日本から来たことを告げ、Mr. Kunudsenに面会を求めた。SSDBの担当者である。Mr. Kunudsenは笑顔で出てきて、「Welcome Mr○○,but the appointment is tomorrow I think.」と言った。1日間違っていた。長旅と、早く解決をと思う心が、災いした。Mr. Kunudsenに非礼を詫び、明日出直してくることを約束し、ホテル・ブリストルに向かった。
ホテルに入って、感心したのは、冬の国ならではの設備で、館全体が心地よい暖かさに包まれていた。壮麗なホテルで、歴史を感じさせる5つ星のホテルだった。私は旅装を解き、くつろいだ。旅の疲れと、気疲れで、ほんの少し仮眠を取った。私が事前に国内で接していたノルウェー人と本国の人間はそっくり同じだった。紳士で、優しく、気遣いがあり、英語圏でないので、英語が分かりやすい。それが一番助かったかも知れない。Kings Englishだ。とは言っても夕食に一人で出かけ、欲しいものを注文したいが、町のレストランでは、勝手が違った。しかし、その晩の食事には何とかありつけた。

一夜明けたオスロで、朝食を採るのに、ホテルのバイキングスタイルの朝食が豪華に見え、之は別途料金が要るのではないかと、逡巡した。フロントで確かめ「Include」であると分かって、初めて、心おきなく食事が出来た。今にして思えば常識であることが、当時の私には分からず、その時初めて常識の仲間入りをした訳だ。
NVのオフィスが開く、9:00を少し遅れて、訪問した。Mr.Kunudsenは先ず、Dr.Carl.Carlsenに紹介してくれた。NV技術部門の総元締めだ。柔らかい物腰と温和な人柄は、私を直ぐファンにしてしまった。遠いところを良く来た、問題の重大さは分かっている、Mr.Kunudsenも一生懸命解析している。彼に任せているので、安心しろという内容だった。確かにMr.Kunudsenは優秀な男で、私と殆ど同じ年頃であったが、実務的には最高の力を持っていたのであろう。Mr.Kunudsenは、その後、共に働いている、仲間のエンジニアを紹介してくれ、昼食を一緒に採ろうと言ってくれた。
異国での一瞬にして構築された、友情は、矢張り私にとって、嬉しいものだった。日本人の誰が、この様な局面で、優しく接してくれるだろうか?疑問だった。昼食後、早速本題に入り、彼に事前に提出していた私のプランについて、NV側で、リビューし且つ独自の検討を行っているという。途中経過を話してくれた。「我々には時間がない、早急に結論を出して欲しい」と言うと、矢張り無理である。「1weekは最低必要だ」との返事だった。私も10日間程度は覚悟で来ていたので、それまでは待たねばならない。一緒にいると、Mr.Kunudsenの手が止まる。毎日訪れる約束をして、早めに切り上げた。

ホテルに帰っても、本国とのやり取りをせねばならず、外に出歩くことも出来ないまま、辛い待ち時間を過ごさねばならなかった。そんな繰り返しで、2~3日が経った。気ぜわしくはあったが,その間に、オスロ近郊の公園や博物館を訪れ、バイキングの乗った船の実物を見た。勿論木造であったが、竜骨(船底中心にある、船の背骨に当たる部分:Keelという)が反り上がり、前部には、海の女神ネプチューンの像が彫刻してあった。流石造船国である。私が持っているバイキング像は、カークダグラスと、トニーカーチスのそれであり、新天地を求めて南下し、英国初めヨーロッパに驚異をもたらした、Norwegianの先祖である。4日目ぐらいに、NVを訪れたら、なかなか進捗していない。中間結果を見せて貰って、考え方を協議し、私は自分の主張をした。Mr.Kunudsenの仮定と、モデル化に若干の不満があったからだ。そして、「We want to get a early decision」と言うが、Dr.Carl.Carlsenが来て、「Mr.○○、今ここで、結論を出すとしたらそれは大雑把な結論で、例えば、必要板厚35mmだと仮定しても50mmを要求せざるを得ない、それで良ければ、Approvalを出しても良いが、経済的に考えたらもっとソフィスティケイテッドな解析が必要だ」と言われた。船級協会としては尤もなことで、私は引き下がらざるを得なかった。その時初めて”sophisticated”なる言葉を覚えた。(その言葉について、Dr.Carl.Carlsenに意味を尋ねたものだ)彼らも、必死で、解析してくれた。私は中間報告を本国(玉野)に送った。玉野からは、未だ待てる、しっかりした、経済性を追求した結論を引き出すようにとの指示が来て、君に判断は任せる、NVと協力して、早急な結論に走らぬようにとあった。

そんなやり取りの中、Mr.Kunudsenの出した結論についてディスカッションして、更に実際的な結論を得るべく、計算のやり直しをお願いした。10日目になろうとした時最終計算が出来上がり、結果は私にも満足出来るものであったので、用意していた、図面に一部朱記訂正の上、“Approval”のスタンプとサインを貰った。私は、Dr.Carl.Carlsen とMr.Kunudsenと彼らスタッフの協力に深甚の感謝の気持ちを伝え、その承認図面を押し頂く様にNV本部を後にした。Dr.Carl.CarlsenもMr.Kunudsenも笑顔であった。「Mr.○○はTough Negotiatorだったよ」と言ってくれた。
ホテルに帰り、その旨玉野の伝え、工事の再開を依頼した。

決まったからには早急に帰らなければならない。玉野からは、三井物産の出張所があるはずだから、其処を尋ねて帰国の段取りをして貰うようにとのことだった。遊んで帰れとは言わない。尤も私にも玉野に待つSSDBが気になり、それどころではなかった。狭い町、何とかして、物産の出張所を探し当て、挨拶もそこそこに、帰りの切符の手配をお願いした。快く引き受けてくれ、今までの経緯を話すと、「ご苦労さんでした。」と言ってくれた。帰りは、ロンドン経由の便が手配され、私はチケットを手にした。だんだん住み慣れてきたブリストル・ホテルをチェックアウトする時には、馴染みになっていた、ホテルマン達が、又来て下さいと愛敬を振りまいた。私は2度と来ないであろうノルウェーの地を踏みしめ、再び機上の人となった。ロンドン、ヒースロー空港は、雑然としていた。英語の案内も私には流暢すぎて完全には理解出来ない。雰囲気で、トランジットゲートに向かい、成田行きの機に乗り込んだ。
成田に着き、やっと安心したが、国内線で、伊丹まで移動し、それから電車で、玉野に帰り着いた。
やっと帰った。大任を果たせたとの思いが、身体全体を襲った。
翌日、会社に出た私は、オスロからの回答に基づいて、仕事を再開した。

その後アンカーを格納すべく深く抉られた、コラムのリセスが、本船上に搭載されると、私には万感の思いがよぎった。アンカーも確実に装着出来、一瞬初めからその様に設計されていたのだと言わんばかりに、自然に見えた。
公式試運転時に見せた、巨大クレーンの起伏は、勇壮なものであり、之が何処で使われるのか皆目見当もつかず、外国の人間は、桁外れだなぁと感心しきりであった。私は、その設計に携われたことに感謝した。

SSDBは1985年4月4日、起工してから1985年12月20日引き渡しを完了するまで、わずか8ヶ月余ではあったが、慈しみを覚えながら、玉野の係留岸壁から、タグボートの力を借りつつ、8ノット余の速度で、目的地に向かって旅立っていった。
私たちは、何時も再び見ることのない船や、リグを造る。何処で活躍しているのか、どの航路を行き来しているのか、皆目知らない。そんな意味では造船屋は因果な商売である。人間だったら、嫁に行ってもたまには里帰りもあるだろう、橋梁工事ならその場所に行けば又会える。しかし船にはそれがない。

******

ふと私は、自分の免許証を見た。それは、私が大学1年の終わりに取った昭和39年のものだった。その当時は、普通免許におまけで、自動2輪がついてきた。私は、この免許を、行使したくなった。何のことはない合法的に与えられた、免許の行使だ。
私は、1985年4月6日、カワサキのEN400を購入した。二輪車に乗ったことはなく、最初おぼつかなくて不安定であった。

それが、私を死の間際まで誘う序章でもあった。
私は幾度と無く転んだ。あわや川に突っ込む寸前まで行ったこともある。そのたびに壊れた二輪車の修理を繰り返した。
幸い自分の怪我は大したことはなかった。2週間経ち、適当に慣れたところで、単身で、千葉へのツーリングを思い立った。
千葉に向けEN400を走らせた。山陽自動車道から、1号線を暫く走り、阪神高速から名神、東名を走った。バイク仲間は面白く、すれ違いざまに、クラッチを持つ手(左)を胸の横で交叉しV字マークを送って、挨拶を交わす。それが礼儀らしかった。最初面はゆかったが、その挨拶を自然に出来る様になっていた。
5月の連休の最初の日、横浜に投宿した。次は東京近くに泊まりそのあとは単車好きの千葉の友人宅に泊めて貰うべく電話を掛けた。快く受け入れてくれて、市原(後に私も千葉に転勤する)の友人の社宅を訪れた。友人は私より若い、私が歳の割に異常な行動をしているだけだ。どうも感性が狂っているのか。
翌日、友人は、私も知っている共通の友人に声を掛け3人でツーリングをしようという。どうせ帰り道、それではと、彼の奥さんに礼を言い、大湧谷目指して、ツーリングを始めた。
東名を、大井松田で高速を降り、強羅、硫黄の臭い一杯の大湧谷、芦ノ湖を一周した。適当なところで、互いに東に帰るのと、西に帰るので別れ、共に御殿場ICから反対方向に散った。
それから帰りの一人旅は、やや寂しいものだったが、東名を口笛を吹きながら帰るのは、とても清々しく、そのままいつまでも走っていたい様な気分だった。EN400もよく走った。

帰って、暫くF573を続けた。前後するが、未だ正式には引き渡していなかった。峠を越しているので、余り私の出番はない。次の設計のことを考える方が、忙しい。千葉から帰って、2週間後、今度は日本のエーゲ海と言われる、近場の牛窓にツーリングした。私が若いころ、職場の連中と、向かいの島に渡り、サザエやアワビ、魚などをたらふく食べたことがある。
やはり多島海、直ぐ近くに小豆島の西のはずれ、土庄町が見える。二十四の瞳の島だ。西は塩飽諸島、東は、小豆島から、播磨灘へ、瀬戸内海は、余りにも穏やかである。
バイクに取り憑かれた私は、2週間後に、単身出雲大社に向かった。奥津渓谷を越え、鳥取の倉吉から国道9号線を西下、出雲に入った。荘厳な切り妻造りは、厳かな風情であり、切り妻の先端が縦だか横だかとにかくお伊勢さんのそれとは違うと誰かが言っていたのを思い出した。
そのころには、バイク好きの人が、会社内にいることが分かり、私は行動を共にすることもあった。そんな夏の日、何でもないところで、転倒した。別段怪我はなかったが、何かの予兆であった。それから1ヶ月後、又転倒、スピードが出ていな状態での立ち転びは単車の重量が重いだけに一旦転びかけたら逆らうことは出来ない。逆らうと骨折しかねない。

そんな中、ある日、むしゃくしゃして単車に飛び乗った。スピードメータが上がり切らぬところに左への脇道があり、其処へ急に軽トラックが左折してきた。急ブレーキを掛けたが間に合わず、私はEN400もろとも横転した。遅れて気が付いた軽トラックの運転手は急ブレーキを踏み、その車輪が5cmも離れていない横転した私の目の前で止まった。

九死に一生とはこの事かと思ったが、相当な打撲と、共にEN400はひどく損傷してしまった。私も悪かったが、その時本気で死んでも良いと考えていたし、ちゃんとした革ジャンと革のズボンを履いていたために誰かの手を借りると歩ける程度の怪我で済んだ。

今にして思えば、ひと思いに車輪が頭を踏みつけていたら楽だったろうにと考えることがある。黒い犬が来て、死を考え、適当な枝振りの木を探して彷徨した時以来2度目の死への直面だった。(ここで、重大な書き落としをしていたかも知れないことを思い出した:母が、もと兄により、大阪から投げ捨てられる様に玉野にやってきた時のことだ。見直して、まとめる時に書こう。黒い犬が来た時だったから。)


造船時代その6に続きます。




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